2024年6月29日(土)、30日(日)公演「Alice in Far East Wonderland 〜極東のアリス〜」
オリジナル脚本の物語を、小説仕立てで公開!
物語を読んでから公演を観るもよし、公演を観てから読むもよし。
不思議の国の物語を是非お楽しみ下さい。
※この文章には公演と同じセリフ/ストーリーのネタバレが含まれます。
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アリスという娘は、まるで夢の中を彷徨うかのように優雅に踊っていた。アリスの周りには真珠が輝きを放っている。息を呑むような美しさが場を包んだ時、声が聞こえたような気がした。
――美しい真珠は、母なる真珠貝の涙でできているのよ。
真珠を作るには、まず真珠貝の口をこじあけて異物を押し込むの。
そのあまりの苦痛に、半数は耐え切れず死んでしまう。
異物を抱えたまま、その痛みを言葉にすることができない貝は、
代わりに静かに涙を流す。
流れ続ける涙がやがて異物を包み込み、それが真珠になるの。
―――
閉塞感のある暗い部屋。
ろうそくの明かりが揺れ陰影が深まる部屋の中央には、白い衣装をまとった娘が椅子に縛られていた。真珠のネックレスがその首に揺れる。
二人の女中が彼女の身支度を整えるなか、娘は黙々と鋏で紙人形を作っていた。
電話のベルが響き、母親の声が静寂を破った。
「やっと輿入れが決まりまして。ええ、そうなんですの。
だいぶ年は離れてますが、これでやっとわたしも安心ですわ。
ええ、相手は八十を超えてらっしゃるから、身体もいろいろ不自由になってきている
ようで。身の回りの世話をする年頃の娘を探していると
そりゃあ結納金はたあっぷりと。そりゃあ、ねえ。これでわたくしも安心ですわ。
ええ。ではまた今夜パーティで。」
母親が電話を終え娘と女中の方を振り返ると、娘は急いで紙人形を隠した。
「まだかかるの?わたくし夜は別のパーティなのよ。あの方も早く着くといいけど。支度をしてくるから。あなたたちも急いで頂戴。」
母親の目が遠ざかるのを確認すると、娘は再び紙人形作りを再開した。女中は忌々しく彼女の髪を引っ張り邪魔をするが、娘は紙人形を掲げ遊びを続けた。
母親はというと、帽子をかぶった男と話し始めた。男はポケットから札束を取り出した。
「ねえ、人買いさん。この娘 いくらで売れるかしら?
全くあの子はいつまでも子供の様に自由に生きていけると思ってる。
この世には道がございます。誰もが踏み外さぬよう細心の注意を払いながら少しでも前進しようと努めているそんな一本道が、見えないけれど確かにあるんです。
その一本道から平気ではみ出していこうとする者を見ると殴り殺したくなるんです。
いえ、防衛本能ですわ。自分が嬲られているように感じるんだもの。
我々には一本道から外れないために課されている使命がございます。
あの子もそれをを果たさなくてはなりませんわ。」
母親の長い独り言を黙って聞いていた男が先程の札束を差し出すと、母親は奪うように受け取り、そのまま暗がりに消えていった。
―――
部屋にハイヒールの音が響く。娘は再度、紙人形をあわてて背中に隠した。
しかし一枚の紙人形が母親の目に止まってしまった。
「なにを子供じみた遊びを。いい加減にして頂戴。」
母親は見せしめるように、娘の眼の前でその紙人形の首を鋏でちょん切って見せた。
その瞬間、娘は心の奥で一人の男性が息絶えたような、不思議な感覚を覚えた。
動揺する娘の表情に気づくことなく、真珠の首飾りを娘の首にかけながら母親は続ける。
「あなたもようやく一人前の女性よ。やっと娘としての務めを果たすことができるのだから。わたしを安心させて頂戴。あと数時間で到着なさるそうよ。」
女中から受け取った小瓶をグラスに移し、言った。
「あなたもこれを飲んで少し眠りなさい。」
母親の言うことは絶対だ。娘は去っていく母親を見送りながら、無表情で飲み物を受け取った。その瞬間、世界が歪み始めた。
―――
ここはどこ?
目の前では、トリッキーな動きをする兎と妖艶な黒猫が踊り戯れている。
今までいた世界ではないようだ。
アリスが怪訝な目で見つめると、突然黒猫が語り始めた。
「みなさん、御伽噺はお好き?
昔々あるところに、空想の世界に逃げ込んでばかりの娘がいました。
そう、お前。
ハサミで作り出す紙人形たちの生きる空想の世界が娘の拠り所。
でも紙に汚れた水がしみていくように、空想の世界にも現実が滲んできます。
お前の現実、今ハードでしょ。そうするとこっちも大変なのよ。
空想を笑う者は空想に復讐される。
金のハサミで切り抜いた、無垢な双子がお茶を飲む。
イケナイ本からくり抜いた、落ち目の娼婦がひらり舞い、
はりぼての月の下、花札の女が投げるサイコロ。
愉快な仲間が欲しいなら、なんでもその手で切り抜きな。
でも風の強い日にゃご用心。みんな飛ばされあら不思議。
誰もいなくなっちまう。」
黒猫が先程の薬入りの飲み物を差し出した。
「それはお前のワンダーランド、お前の拠り所。救うのも壊すのもお前次第。さあ!
選択肢なんてあるようでないんだよ。物語を進めな。」
黒猫は語気を強めてアリスに薬を差し出した。
アリスは薬を飲むのを躊躇したが、むっとしながら一気に飲み干し、その場に倒れてしまった。
黒猫はアリスが倒れるのを見届けるとニヤニヤしながら去っていった。
「Alice in Wonderland〜♪」と鼻歌を歌いながら。
―――
幻想的な明かりの中、ランタンを持った修道女が賛美歌を歌っている。
ステンドグラスの赤緑黄色青の光が床に差し込む部屋で目が覚めたアリスは、ついつい寝転がりながら美しい賛美歌に聞き入ってしまった。虚ろな気持ちでいると次々と修道女たちが現れ、アリスを取り囲んだ。
修道女たちはアリスを取り囲みながら儀式の舞をはじめた。舞に翻弄されるアリス。
その中でもひときわ大きく、存在感のある大修道女と目が合ってしまった。
「大修道女の懺悔室へようこそ。ここに来たからにはわかってるんだろうねえ、え?
お前さんあの賛美歌を聴いたろう?ありゃ有料だ。
それにこの舞の儀式。もちろんこれも有料。
これだけ有難い行いを受けてただで通そうってのかい?お前さんそれは神の罰が当たるってもんよ。
さあ金目のものを出しな。」
先程まで優雅に舞を踊っていた修道女たちが一変、ナイフや鋏などの凶器を手にアリスの喉元につきつけた。
アリスが怯えたその時、先程の黒猫が大修道女の足元にやってきた。
「おお~、禁忌ちゃん、禁忌ちゃん。」
大修道女は猫撫で声で黒猫に呼びかけた。この黒猫は禁忌(きんき)という名前らしい。
どうにも猫の名前らしくない、不穏な呼び名だ。
「この子は禁忌。名前の通りさ。災いを呼び起こすことができるんだ。
冗談だと思うかい?いや、ほんとの話。
この禁忌が踊れば嵐も飢饉も戦争もお手の物。私らはこの子を連れて村々を「巡礼」して、災いを避けたければ「献金」を怠るなって言って大金をせしめるってわけさ。
でも近頃ではどこの村も時化ていてね。お前本当に金目のものはないのかい?」
愛猫の禁忌に気を取られてしまった大修道女は気を取り直し、アリスの方に向き直った。
アリスに何も金目の持ち物がないことを悟ると、大修道女は溜息をつき、ベルを鳴らした。
「帽子屋、これはいくらになる?」
帽子屋と呼ばれる怪しげな男がどこからともなく現れ、不可解な動きで「これ」と呼ばれたアリスの値段を計測し始めた。
その様子を眺めながら大修道女は言う。
「仕方がない。お前のことをこの帽子屋に売っ払うとするよ。(観客に向かって)帽子屋は通り名さ。こいつは人買いなんだ。
お嬢さん、お前はこれからハートの女王の元へ向かうんだ。
誰もが自分の何かを売らなくてはならない街だがね、不可能が可能になる街でもある。
さあ!」
帽子屋は札束を3枚差し出し、大修道女はそれで手を打った。
金勘定をしている大修道女を尻目に、帽子屋は買い取ったアリスに手際よく縄を巻いていく。
帽子屋はランタンを片手に、急に知らない男に売られて不安そうなアリスの手をいざなった。
旅に踏み出したアリスと帽子屋の二人を眺めながら、大修道女はつぶやいた。
「きっとまた会うことになるね。ね、禁忌ちゃん。」
―――
二人の旅は続く。
買った男と買われた女、そんな関係の二人なのに、旅を続けるうちに生まれた不思議な信頼関係が二人の間になにかの絆を築きはじめていた。
「全部おいてざっと逃げて姿くらまし
たばこの煙を追ってつい窓から飛び出し
裸足で迷い込んだは虚栄の市
さあ唇咬んで瞼閉じて全部おいてこう
あの月めがけてさあ 吸い殻飛ばそうよ
ストレートにロードに落下するまでがまがいなき僕らの時間
火が消えるまでの数秒 道徳のリミット外してみましょう
永遠にループさせて
繰り返し繰り返し繰り返し
生活の崖っぷちで揺れるこの気持ち
きっと伝達不能
動機なんていつだって不純さ
何だってなんだっていいんじゃない
物語を動かして
その先の景色見てみたいでしょう」
自分を物のように買い取った男なのに、同じタバコを吸い、髪を梳かされ、あたかも大切な存在のように扱ってくる。
アリスは自分が帽子屋に感じている愛着を不思議に思った。
「わからない これが愛なのか
それとも夢見てるのか
睡眠とか 栄養とか 足りてないだけか
わからない だってあなたは人買い
今もわたし縄できつく縛られてるわ
わからない あなたは味方?それとも敵?
ああわからない だから今日も 考えるわ あなたのこと」
そんな旅の終わりにたどり着いたのは、まるで祭りの真っ最中のように賑やかで、いたるところで商売がなされ、華々しく活気に満ちた国だった。
―――
この国の中心には、玉座に座った「ハートの女王」がいた。
この国のすべての住人はハートの女王を崇め、彼女の決めた法律に従う。
やがてベースとパーカッションのリズムが響きはじめ、ハートの女王が歌い出した。
「日は昇り 星は輝き そしてお金がかかる さあ働きましょう
ここじゃ 息を しているだけで 貯金も減ってゆく Welcome to the wonderland
愛で お腹は 膨れはしないが 空腹は忘れさせる
愛を売り 愛を買い 愛を喰らい 生きていく わたしこそが? クイーンオブハート
ああ、なんて儚く厄介 ああ、わたしの愛はここに 直球
払えない というなら なにか差出しなさい
身包み… はがされたいの?
さあ、あなたの売りはなに?
さあ、値踏みしましょう その価値を
愛は厄介 愛は奇怪 でも倍 払うと仰るなら
確かな愛をあげてもいい!」
女王が歌い上げると、周りで音楽を盛り上げていた兎がぴょこんと飛び出て語り始めた。
「え〜、不思議の国の国民の皆様、本日は美しい快晴の日に皆さま勢揃いして頂き、我らが美しきハートの女王の美と健康と繁栄を云々・・・」
女王がイラついた様子で玉座を指で叩く。女王の側近である花札姉妹が“巻き”を合図する。
「え〜、それでは今日も参りましょう。夢を売る国の大法。
其ノ一、現代において自分とは商品であり
其ノ二、自分が生命力を使うこと、それすなわち投資であり
其ノ三、自分の地位や人間市場の状況を考慮しながらその投資によって最大限の利益をあげるべし!」
女王は玉座から立ち上がり、威厳を持って言葉を続ける。
「つまり自分を高く売ることに繋がらない行為にその生命力を使っては、だめ。それはこの国全体の損益ですから。お分かりかしら?」
兎が鋏を女王に差し出し、女王はそれを受け取った。
女王は国民を隅々までチェックする。
こそこそ話をしていた賭博屋たちに女王は振り返り、鋏を手に紙人形に触れる。
「そこ。無意味な雑談、無益!悔い改めなさい?」
賭博屋たちは震え上がり、許しを請う。
女王が鋏で紙人形をくしゃくしゃにしようとすると、三人はぎゅっとフリーズしてしまった。
「そこ。不毛な恋愛・・・。無益!どころか大損だわ!お話にならないわ♡捨ててしまいましょうね。」
ラブレターに愛おしそうに接吻していたマダムキャタピラーに花札姉妹が駆け寄り、ラブレターを奪い取って女王に差し出した。女王は鋏でラブレターを真っ二つに切り、花札姉妹がその破れたラブレターをマダムキャタピラーの面前で捨てた。
「あなたがたがやっているのはお茶会、かしら? おやまあ。Time is moneyって聞いたことがあって?」
演説中にお茶を飲んでいた双子を指差し、鋏を持ちながらあたかも優しそうに言う。
双子は怯えて震えながら茶器をしまった。
女王は背中に目がついているかのようだ。
女王が自分の後ろ側にいた帽子屋に急に振り向くと、帽子屋は帽子を取って女王に挨拶し、黙ってアリスを差し出した。
女王はアリスの方を向いて挨拶をし、アリスもお辞儀を返した。
「帽子屋、久しぶりじゃないか。ようこそ不思議の国へ。」
「捕らえよ!」
女王がアリスと会話しているうちにこっそり逃げようとしたマダムキャタピラーだったが、後ろに目がついているような女王にすぐに捕らえられてしまった。
女王は空中に浮かぶ紙人形を一つ捕らえて、ちょん切った。マダムキャタピラーの愛した男が、首を切られたも同然だった。
この国では住人の命とリンクした紙人形が女王の掌の上。全てが女王にお見通しだ。
「ここを自由に出ていけるとでも?まったく、贅沢が過ぎるわ。」
女王はアリスに向き直ると、鋏を持った手でアリスの肩を抱きながら語りかけた。
「この世界ではひと様の役に立ってはじめて自由に生きるなんて贅沢が許されるのよ。お前は何か役に立つのかい?ええ?言い換えよう、お前はわたしの役に立つのかしら?」
女王は凄味を増しながら、アリスを玉座の台の上に連れて行き、鋏であちこち指しながら尋ねた。
「お前の価値はどこにある?ここか?ここか?ここか?」
アリスがおびえて身を引くと女王は高笑いをした。
そして鋏でアリスの縄を切ってアリスを玉座に座らせると、玉座のアームスに腰掛けて不思議の国を見渡しながら語った。
「わたくしがお前を仕込んでやろう。お前がこの世の役に立つように。さあおいで。いい?
不思議の国で一番人気の商売、それはね、サービス業さ。サービスは何が元手かわかるかい?ここだよ。」
「ハートさ。自分のハートを使って人のハートに奉仕する。それがサービス業。なにが素晴らしいってね、元手はただ同然。小麦粉でパンを作ればその分小麦はなくなるでしょう。でも心が減ったり増えたりするかしら?なのに心を元手にしたサービスは時にパンなんかよりずっと高値で売れるわ。愛でお腹は膨れはしないが♪ こころの飢えには大金が舞う。不思議な事よのう。やってごらん。うまくやれなければ切り刻むまでさ。」
女王はみんなに向かって手を叩きながら言う。
「ほら、楽しい商売の時間だよ。さあみんな、うまく、高く、美しく、自分を良い値で売りつけなさい。」
―――
女王に言われるがままに、商売が始まった。
「雨が血管まで濡らすわ
抗うにはやめて溺れてしまおうか
言葉失ってたどり着く
悲しいくらい美しい世界
お好きなように 切り落とせばいい
ハートに値段はないなら
こころゆくまで お仕えしましょう
なけなしの真心をさあ、あげよう」
客が群がり彼らは好きなようにこころをかすめ取っていく。
集金係の兎のお盆には持ちきれないほどの金が積み上がった。
客たちが去り、女王から自分の分け前を受け取ったアリスは自分がしっかりすり減ったことに気づいていた。
「いとも簡単に騙される
瞳濡らすなんて朝飯前なのに
欲しい 言葉あげるために
なにもかも飲み込んであげよう
お好きなように 切り落とせばいい
ハートは減ったりしないの
こころゆくまで お仕えします
なけなしの真心をさあ、あげよう
言葉失ってたどりつく
誰にも届かないこの声は・・・」
アリスはすり減った自分に疲れて絶望していた。周りにはたくさん人がいるのにこんなにも孤独を感じるのは初めてだった。
そこにそっと帽子屋が近づき、アリスに寄り添った。ぼろぼろになったアリスのハートのかけらを拾いながら近付き、可哀想に、愛おしそうに、ハートにつぎはぎを当てて貼っていった。
アリスはそれに、一時でも救われる気持ちがした。
しかし最後には帽子屋もアリスからお金を取って去っていった。
―――
「調子はどう?」
すっかり商売にも慣れたアリスは、黒猫の禁忌とお茶をしていた。
「まあまあ、ここはいい国だよ。ほら、これでも飲みなよ。」
「あの帽子の男を好きだったわけ?」
アリスはやや自虐的な気持ちで、いやそれほどでも、、と頭を振った。
「じゃあいいじゃない、いつものように飲み込めば。」
飲み込む?アリスは急に脳天を打たれたような気持ちになった。
なんとなく流され、飲み込みながらやり過ごしてきた結果、私は今ここにいるのだと急に突きつけられた気がした。
自嘲的な気分の中アリスは立ち上がり、商売のために背負っていたハートを投げ捨てた。タンバリンのリズムが鳴り、自然と身体が動く。アリスは自分の本当のこころの在処に気づいてしまった。
アリスの踊りに呼応して不思議の国の住人たちも踊り始める。
夢中で踊っていると、背後には玉座が、そしてそこには女王が座っていた。
女王に気付いた順に住人達は怖れ固まり、気づけば黒猫の禁忌も姿をくらまし、女王とアリスの目が合った。
「この女を捕らえよ!」
女王の命令で花札姉妹がアリスを捕らえた。
とその時、献金袋を持った修道女たちを率いて、大修道女がやってきた。
兎は少し離れたところからオペラグラスでその様子を観察している。何か面白いことが始まりそうだ。
大修道女は女王に向かって声を張り上げた。
「どこも時化ているというのに、大繁盛だねここは。
我らがハートの女王さま、ご機嫌麗しゅう。素晴らしい大繁盛ですこと。
評判が遠い村々まで響き渡っておりますわ。これも全て神のご加護のおかげですわね。」
女王は薄笑いを浮かべながら答えた。
「まあまあ大修道女よ、面白いことを言う。ここは神不在の街。ここじゃ神ですら何かを売る羽目になる街ですのよ。おっほっほ。」
大修道女は一歩前に出て、女王に耳打ちした。
「あの娘がこの不思議の国にやってきたこと、それだって紛れもない神の思召し。感謝の気持ちを忘れたら、足元で大きな口を開けるは地獄。」
その言葉に応えるように、禁忌が修道女たちの間をぬらりと縫って現れた。
大修道女が声を上げる。
「ほら、陛下もこの禁忌の噂はお聞きになったことがあるでしょう、ね?」
女王は修道女の一人から献金袋をひったくると、冷たく笑った。
「坊主丸儲けとはこのことですわね。おっほっほっほっ。神や祟りを恐れるものに商売ができますか。
風が吹けば桶屋が儲かる。戦争が起これば武器屋が儲かる。
イナゴがくれば駆除隊が儲かるし、嵐がくれば大工が儲かるのよ。
神に感謝するすべが金ならば、祟りが奪えるものも所詮金。私ならそこからもっと稼ぎ出してみせよう。」
忠告に取り合わない女王に、大修道女は毅然として言い放った。
「哀れな魂よ。禁忌よ、そなたの力を解き放て。」
あたりが一気に薄暗くなり、恐ろしい雰囲気が漂う中、禁忌が舞い始めた。
猫のような呪いのような妖しげで美しい舞に、全員が目を離せなかった。
黒猫の禁忌の舞いが終わると、女王は呪いがかかったように全身の力が抜け動けなくなってしまった。
禁忌はアリスに鋏を渡した。
―――
すべてを支配していたはずの私が、何かに支配されている。そう感じた女王は、とつとつと心のままに語り出した。
詩を読むかのように。
「夕焼け小焼けで日が暮れて、最初の星が輝きだす。
一番星は、朝が散らしたものを、みんなもとへと連れ帰す。
羊を帰し、山羊を帰し、子を母の手に連れ帰す。
わたしを連れて帰る手はどこ?
たくさんの星に照らされて、ずっと待っているのに。
いいえ、違うわ。
きつく解かれた長い髪、切り落としたとき全部忘れた。
ええそうよ。
記憶をちょきんと切り落としてこの王国を築いたの。
さあ価値を高めるのよ。
価値は力で力は価値、漂白してやすりをかけてもう二度と誰にも捨てられないように。
力のない者は自由に生きていくことなぞできない。
この王国がなければ、みんな野垂れ死ぬわ。わたしはお前たちを守ろうとしているのに。
ほら、お前の市場価値を高めてやろう。
どうしてそれがわからないの?
捨てる側になったのよわたしは。容赦なく切るの。
女王だもの。」
アリスが鋏を受け取り、フリーズした住人たちの合間を縫って紙人形に手をかけた。
女王は叫んだ。
「言い値を出すわ!ほらいくら欲しいの?いい子だからそれをこっちによこしなさいな。」
アリスは女王の命令を聞かずに紙人形を破り捨てる。それを合図に演奏と紙吹雪が舞い始めた。
神々しく紙吹雪が舞う中、住人たちは自分たちに何も起こらないことに気づく。
紙人形の呪いは思い込みであり、自分で自分を縛っていたのだと理解した彼らは、少しずつ自由に踊り出した。
女王は身をすくめ、ゆっくりと起き上がった。
住人たちが自分を気にせず自由に動き回る様子を見ながら、彼女は舞台中央に進み、アリスと向き合った。鋏を受け取り、誰もいなくなった王国の玉座に一人座った。
―――
アリス(娘)は夢から覚めたように目を覚ました。手に女王(母親)の鋏を握りしめ、もう片方の手を開くと紙人形の切れ端が舞い落ちた。
アリスは彼女は首にかけられた真珠の首飾りをハサミで切った。そしてバラバラになった真珠は美しく輝きながら床に転がり散った。
アリスは縛られていた椅子から立ち去り、そのまま新しい世界に足を踏み出す。
母親は散らばる真珠に気づいた。彼女は真珠を一粒拾うと、自分の元を去った娘を想い、一人佇んだ。